[RCCドラムスクール特別企画]

日本音楽界の至宝・猪俣猛と、スタジオ・ミュージシャンとして超多忙を極めた3人の名ドラマーが45年ぶりの再会!

“ネム音楽院”師弟座談会

Scene3

[RCC特別企画]ネム音楽院師弟座談会

《Scene3》

“お前、100年早ぇよ”──
白木秀雄のひと言で火がついた

《Scene3》

“お前、100年早ぇよ”──
白木秀雄のひと言で火がついた

宮崎:前田憲男(1934-2018)さんが亡くなって寂しいですね。

猪俣:そうなんだよ。俺もそれでガクンときててね。本人も100歳まで生きるって豪語してたんだけど。

宮崎:僕、今“三人娘”──伊東ゆかりさん、園まりさん、中尾ミエさん──のコンサートで演奏していて、アレンジが全部前田さんで、ときどきリハーサルにお見えになっていたんですけどね。前田さんのアレンジって、もう本当に盛り上げ方の上手いこと。

猪俣:どうってことはないんだけど、すごくベーシックなんだよね。みんな奇を衒ってるけど、前田さんはそういうことはないね。

宮崎:ああいうアレンジができる人って、今少ないんじゃないですかね。

猪俣:俺も前田さんが亡くなったショック、まだとれないもん。俺が16歳の頃からの付き合いだから。前田さんが大阪に出てピアノ弾いてたとき「俺より若いタイコが出てきた」って言って。先輩には宮川(泰/1931-2006)さんがいて、そのあとに前田さん、次に北野タダオさん(1934-2018)っていう3人が“三羽ガラス”って言われて。そのときは前田さんが高校3年生、俺が中学3年で、宮川(泰)さんから紹介されてジャム・セッションに行ったら「えっ? そんなに若いのか!」って。やっぱり俺は天才なんだよ。

(全員爆笑!)


岡本:それはわかってますよ、先生!(笑)

宮崎:中学生と高校生のときからの付き合いですか!? 

猪俣:俺が中学3年生のときに、白木(秀雄/1933-1972)さんがたまたま京都に来たから、わざわざ「教えてください」って行ったら、「お前、100年早ぇよ」って言われて、カチーン!!とキて。「よぉし、いずれこの男、叩きのめしてやる!」と思ったんだよ。

岡本:あ、その話、聞いたことありますよ!

猪俣:今だにあの言葉は鮮明に覚えてる。それで、ずっとあとになって俺が銀座のライブハウスに出てるときに、白木さんが来て「おぅ猪俣、俺にちょっとやらせろ」って言うんだけど、白木さんはその頃はもうけっこうひどくて、棒持って演りだしたら、そのときピアノだった佐藤允彦(1941-)が「こんなのやってられないよ!」ってステージ降りちゃったの。うわ、怖ぇ~と思ったよ。この世界は実力以外、何もないないんだから。あのときに痛感したね。佐藤も生意気だったけど、あの光景は今でも鮮烈に覚えてるもん。この前、佐藤に会ったときにその話をしたら「僕、そんなこと言いましたか?」って(笑)。確かにその頃、白木さんは相当ひどかったけど、大先輩だし「やらせろ」って言われたら、そうするしかないから。

瀧本:そうそう、僕、先生に伺いたいことがあったんです。僕は今、ジャンベですけど生徒をもって教えてるんですけど、生徒が“何がわからないのかがわからない”んですよ。自分が伝えていることを、みんながどこまで理解してくれているのかもわからないし、そもそもそれを理解できるのか?できないのか?もわからない。長年生徒さんを教えてこられて、この生徒は理解したんだなってピンとクることってあるんですか?

猪俣:ないよ! でも、ヘタでもこいつはセンスあるな、とか、それはなんとなくわかるよ。

──生徒さんのどういうところを見られるんですか?


猪俣:やっぱり基本的には人間性だね。初めから“俺は上手いんだ”って来るヤツがいるわけよ。そういうのはすぐわかる(笑)。

──先生はよく“センス”っておっしゃいますよね。センスばかりはどうにもならないって。


猪俣:今は情報が多くて自分で考える能力がどんどんなくなってるからね。習ったことを完璧にこなす、ものまねがものすごく上手い人もいるけど、それは“自分で何かを作っていこう”っていう“クリエイティブする能力”ではないからね。

瀧本:なるほど、クリエイティブ能力ですね。最近は天才ドラマーみたいな小学生もいっぱいでてきてますけど……。

岡本:“ポッと出”は、確かに“そっくりさん”で上手いヤツはいっぱいいるけど、あと5年、10年、生き延びていけるくらいの引き出しがあるかどうかっていうのは、今から試されるから、そこからが勝負。長くできるってことは、いかにいろんな人とアンサンブルできるかっていうことだからね。

瀧本:それぞれのパートの“-ist”はいっぱいいるんだけど、やっぱり先生は“ミュージシャン”だと思うんだよね。ドラマーでありミュージシャン。最近、本当にそう思う。今言った“クリエイティブ”という点で、“ドラマー”でありつつ、さらに“ミュージシャン”、“音楽家”でなければならないっていう。技術的には、環境も整ってて練習をいっぱいしていれば絶対に上手くなるわけだけど、その技術とか引き出しを、どういうシーンでどうやって音楽として使っていきますか?っていう話で。全然違う場面で使ってもその音楽を壊すことになったりするわけだから。そこが音楽の難しいところだよね。

岡本:だから“センス”の領域になってくるんだよ。
 

──みなさんは、私の世代から見ると、1人1人、印象的なシーンがいっぱいあるくらい、ずっとトップ・ドラマーでいらっしゃって、昭和40年前後生まれで日本のポップスにハマったドラマーにとっては、3人の存在はすごく大きいんですけど、今もプレイを続けている中で、“壁”とか、闘い続けているものはあるんでしょうか?

岡本:それはもう、ありますよ。猪俣さんも絶対、今だに向上心の塊だと思いますけど、俺らもそれはありますよ。

宮崎:今の若い子を見ても「こいつ、すごいな」じゃなくて「このヤローと思う」っていうね(笑)。せめてこいつらと同じくらいやれるようになってやる、と思いますよ。それを向上心というかわからないけど、そういう気持ちはある。

瀧本:自分の中で、ドラムを叩いてて楽しい! 幸せ!と思えるか、もう嫌んなっちゃったなと思うかの違いかもしれない。

宮崎:それかも。よく聞くんだけど、「すごい!」と思う=「これはもう無理」って思う人がけっこういるみたいだね。俺はそうは思わないな。

瀧本:うちの生徒でも、小学生の子がよく口にするのは「ああ先生、無理無理!」って。

岡本:言うだろうね。だって、何やってるかわからないんだもん。俺が昔そうだったからよくわかる(笑)。だからこそ、今、生徒に“俺もわからなかったこと”を伝えられるというかね。例えば、「俺も2つ打ちなんてわからなかった。なんで1回の振り降ろしで2つ音が鳴るのかっていうと、指を使ってるから。俺もそれがわからない時代があって……」って言ったら、徐々に顔つきが変わってきて、そこからブーストがかかっていったわけ。そうやって何か掴んでくれると、いきなり上がっていくよ。始めて1年くらい経ってやっと「あ、そうか!」ってわかる人が多いから。

宮崎:そういう意味では、猪俣さんがさっきからおっしゃってるように、“与えられる”んじゃなくて、“自分から何かしていこう”っていう姿勢みたいなものがないと、続かないのかもね。

猪俣:俺は直接肌で感じていないと気が済まない質で、アメリカに行ったのは、秋吉(敏子)さんの次くらいに早かったんじゃないかな。とりあえず本場に行って、どんなことを演ってるのか実際に観てみたい、聴いてみたいっていう。だって実際に観た方が早いもんね。最初は、ロサンゼルスからニューオーリンズに行って、次は逆に、ニューオーリンズからロサンゼルスにって、2回行ったことあるわけ。詳しく言うと、ニューオーリンズからシカゴ行って、カンサスに寄って、ロサンゼルスまで。「なるほど、こういうふうに(ジャズの)ルーツができてるのか」ってすごく勉強になったね。で、次はサンバ・バンドを作ろうと思ってブラジルに行ったわけ。そうしたら今度は、俺はまったく手が出なかった。あの泥臭さはね、こりゃダメだと。で、ボサノヴァを聴いたら、これはできる!と思った。だから、一番最初にボサノヴァを叩いたのは僕らしいんだ。TBSの鈴木道明さんっていう有名なプロデューサー(作詞/作曲家でもある)が「最初にボサノヴァ叩いたのはお前だよ」って。当時、あんなリズムはジャズでは考えられないから。8ビート系でしょ。で、2小節で1フレーズだから。

瀧本:そういえば、タワー・オブ・パワーが来日したとき(1974年)に、「これは観なきゃダメだ。行くぞ!」って言われて武道館にくっついて行ったもんね。その日のプログラムとチケット、今だにとってある(笑)。

岡本:それはすごいな! だけどあのとき、デヴィッド・ガリバルディは来なかったんだよ。レコーディングだけで。でも俺はガリバルディを観たかったわけ。

瀧本:いや、ガリバルディだったよ。そのとき猪俣さんと一緒に観たんだから。一緒にタワー・オブ・パワー行きましたよね?

猪俣:行ったと思うよ。あと当時はBS&T(Blood, Sweat & Tears)も来てたしね。俺はすっごく好きだった。そのあと、Chicagoも来たんだけど、Chicagoは俺は全然ダメだった。レベルが低くて。

──そういうふうに、猪俣先生から「コンサート行くぞ!」って言われることもけっこうあったんですか?


瀧本:ありましたね。あの頃は「観なきゃダメだ」って。

岡本:俺は覚えてないなぁ。

瀧本:辞めちゃってたんじゃない? 岡本と宮崎は早くプロになってるから。

岡本:その時期かぁ。俺は1年半くらいでネム音は辞めてるから。

宮崎:俺も“本科”の夏で辞めたからね。

BS&Tのドラマー、ボビー・コロンビーと猪俣猛

──では、ここで話題を変えまして、僕の知り合いのオーディオマニアで「猪俣猛のドラムの音はものすごく気持ちが良い」って音源を集めている人がいるんです。演奏はもちろんだけど、それ以上に“ドラムの音”が聴きたいと。みなさんは、猪俣先生のドラム・サウンドについてはどいう印象をお持ちでしたか?

瀧本:今でも思うけど、猪俣先生のタムのチューニングがものすごくキレイで、どうしたらこんなサウンドになるのかって、ものすごく研究したもん。 

猪俣:昔、ソニー(スタジオのレコーディング)で、チューニングを高くしろだの低くしろって言われたときは、「これは俺の“声”なんだから嫌だ」って言ったら「そんな古くさいことを」って言われたから、俺もう帰っちゃった(笑)。

瀧本:僕らよりちょっと上の世代の人は、やっぱり自分の主張もしっかりしてたからね。俺なんかだと、そんなときは「はい、わかりました」とか言って、後ろにスネア3つくらい用意しておいて、「今日はコレですかね?」とか言っちゃうんだけど(笑)。

宮崎:それは、俺も持って行ってたよ。やっぱり楽曲によっては“ピッチの高いスネアがいい”とかあったから。

瀧本:当時は仕事がたくさんあって、すごく恵まれてた時代で、ものすごく忙しかったんですよ。あり得ないんだけど、護国寺にあるキングのスタジオから、次、築地の方にある音響ハウスって、そこケツカッチンで入れるか?っていう(笑)。

宮崎:あの時代は“ケツ食い込み”もあったから(笑)。

瀧本:俺、2セット用意して、ボーヤを先回りさせてたもんね。お金はかかっちゃうけど、そうしないとしょうがなかったから。それである日、「俺は何のために音楽を始めたんだっけ……」って悩んでさ。

宮崎:いやいや、俺もそれだったんだよ。

瀧本:やっぱりそう!?

宮崎:悩んだよ。

瀧本:忙しいだけじゃなく、当時の流行りのスタイルばっかりで、「またこれですか?」みたいな。「瀧本さん、例の、あのアルバムでやったあの曲の感じでやってください」とかさ……もう、またですか?って。今だったら何のストレスもないんだけど、若いときって「もっとこうしたい!」とか「こっちの方がカッコいいんじゃない?」とか、あるじゃない? でもそういうことを言って二度と呼ばれなくなったこともあるんだけどさ(笑)。だから、「俺は何のためにドラマーになって、音楽をやろうと思ったのか? これじゃないよな……」っていう葛藤の毎日だったね。だって、スタジオに行ってみるまで、誰のアルバムかわからないんだから。

岡本:お金は儲かってるけど……みたいな、ね。

瀧本:そう。で、精神的なストレスが重なって、右足が、2~3年、完全に麻痺しちゃって。

宮崎:そこまでになっちゃったんだ。あの当時は1日に5本なんてこともあったからね。

岡本:コマーシャルも入れたら、それくらいあったね。ケツカッチン当たり前で。

猪俣:朝・昼・昼・夜・夜ってな(笑)。

宮崎:そうですよね。だから(インペグ屋や事務所に)「ここは休みにして」って言わないと、どんどん仕事が入ってきちゃう。

岡本:まぁ恵まれた時代だったんだけどね。仕事があって。だからこそ、俺らもスタジオの世界に入っていけたという。

瀧本:そう、それはあるよね。僕らはすごくラッキーだったと思う。誰か1人が「最近、宮崎っていう若いドラムが良いらしいよ」って言うと、ブワァ~ってみんなが使い出すから。僕なんかは、瀬尾一三さん(1947-)とか大村雅朗さん(1951-1997)とか後藤次利さん(1952-)なんかから声を掛けてもらってからブワァっと広がったんだよ。この3人は、船山(基紀/1951-)さんとか萩田(光雄/1946-)さんなんか(のアレンジ)は、みんなやってると思うけど。

岡本:船山さんと萩田さんもヤマハに来てたもんね。船山さんはバリトン吹いてたし。萩田さんはずっとアレンジだったかな。大村さんもヤマハ出身だもんね。

瀧本:当時は恵まれてた。ツアーでも、長渕(剛)にしろ誰にしろ、1ツアーで6ヵ月60本とか平気であったから。

宮崎:高中(正義)なんか、年2回、春と秋に全国ツアーやるんだよ。

瀧本:今、半年で60本なんて、お客さん呼べないもんね。

──日本におけるスタジオ・ミュージシャンの始まりといえば、猪俣さんの世代が最初になるんですよね。

全員:そうですよ。


宮崎:黎明期ですよね。

猪俣:俺は、「先にドラムだけ入れておいてください」とか、そういうことが増えすぎてきたから辞めちゃったんだよ。何の曲をやってるのかわからない。メロディがないわけだから、どこでフィルインをどこで入れていいかもわからない。それで頭にキて辞めちゃった。

宮崎:そうか……すでに猪俣さんが演ってる時代から、もうそんなことになってたんですか。

猪俣:そう。あの頃、僕の知る限りでは、そういうシステムはソニーが一番早かったんじゃない? レコード会社としては一番若かったし。そこでプロデューサー的なヤツが、慶応出身でドラム叩いてたとかで、ヘンなこと言い出したもんだから「バカヤロー!」って(笑)。

瀧本:(笑)。僕らの時代には打ち込みが入ってきたじゃん? 俺は相当やらされたけど。「一応、これ全部打ち込みでドラムも入れたんですけど、やっぱりちょっとアレなんで、瀧本さん、差し替えてもらえますか」って、もう機械相手だもん。

猪俣:その機械を作った元は俺なんだよ。自分で自分の首を絞めちゃった。

岡本:え? 打ち込みの音作りに、猪俣さんが協力したと。

猪俣:京王技術研究所。今のコルグだよね。

宮崎:コルグの“ドンカマ”ですか!? ドンカマチック!(DONCA MATIC/一号機は1963年発売)

猪俣:そう、あれは俺なんだよ。当時、加藤(孟)さんっていう社長がいて、そこのエンジニアが長内(端)さんっていう、東大出身の強力な頭脳の持ち主だったの。その人が全部データを出して、ドラムをコピーするところを「猪俣さん、来てやってくれ」って言われて。

宮崎:えぇ~~っ!! それは知らなかった! そうなんですか!? 

岡本:じゃあ、猪俣さんの音もサンプリングで入ってるってことですか?

猪俣:そうそう。それをエレクトーンのリズムにも組み込むわけ。あれ、元は全部俺だよ(笑)。

宮崎:最初にそういうものがあって、僕らの時代には、ドラムマシンの音源に生ドラムの音を使うっていうことが増えてきて、その音をくださいっていう仕事もありましたよ。それもコルグだったなぁ。実は僕、ドンカマと一緒に演るっていうときに、ドンカマのグルーヴとピタッと合ったときに気持ち良いって、けっこう思ってたんですよ。当時、ハイハットとバスドラは打ち込みでスネアとフィルインは俺、っていうことがけっこうあって。

瀧本岡本:しょっちゅうあった。

宮崎:でしょ。それがピターッと合うと、めっちゃ気持ち良いわけ。

瀧本:それはすごくわかる。ものすごく非音楽的な達成感なんだけどね。あと、ハイハットだけっていうのもあったよ。昔は、機械だとあのシックスティーンのグルーヴが出ないから。

宮崎:非音楽的っていうのはわかるんだけど、そうやって(打ち込みと生を混ぜて)作っていく楽曲を、出来上がったあとに聴いてみて「お、なかなか良いじゃん」と思ったことはあるよ。

瀧本:俺は、ヤマハの浜松の研究所まで行った。すごくセキュリティが厳しくてね。で、音と、こういうビートを叩いたときのタイミングとか──アーティキュレーションって言ってたかな──、それを研究したいっていうことで、ものすごくたくさんのデータを取られた。

宮崎:ほら、それが今のコンピュータ・ミュージックにつながってるんだよ(笑)!

瀧本:墓穴ほってんだ!(笑)

猪俣:みんなやってんだよ(笑)。

瀧本:(笑)。しかもそれ、信田さんから来た仕事ですよ(笑)。「瀧本さ、今度俺と浜松行ってくれないかな」って。みんなも仕事するようになって、信田さんにも川村さんにも、仕事もらったりしたでしょ。コマーシャルとかレコーディングに呼んでもらったり。

岡本:そうそう。

宮崎:僕、ネム音時代は、もちろん猪俣さんにドラムを習ってましたけど、川村さんと信田さんのアンサンブル・レッスンも、すごく大きかったですね。

岡本:真鍋さんと大浜(和史)さんもいたか。

宮崎:いたいた。

瀧本:つい2週間前、大浜さんの仕事したばっかり! 俺、「初めまして」なんて言っちゃって(笑)。「初めましてじゃないよ。僕、先生やってたけど」って言われて、恥かいちゃった(笑)。そうだね、アンサンブル・レッスンはね……今日は“宮崎がうまかった”って話がいっぱい出てくるけど(笑)、バリー・ホワイトの「愛のテーマ」! あの片手16がうまくできたのは宮崎だけだったんだよ。当時、あれはできなかったわ。

宮崎:俺はできてたのか?(笑) 必死だったよ。

瀧本:必死だったかもしれないけど、かろうじてできてたのが宮崎だけだった(笑)。俺なんかもうヨレちゃって。

岡本:アンサンブル・レッスンは、けっこうすごい曲持ってきてたよね。

宮崎:持ってきてたよ! (ビリー・コブハム)「レッド・バロン」(1973年『SPECTRUM』所収)とか。

岡本:できません!って(笑)。

宮崎:その当時の「レッド・バロン」の譜面が、今、出回ってるんだよ。

瀧本:そうなんだ!

──また、ネム音楽院の話に戻りますが(笑)、みなさんが受けていたレッスンというのは、ドラムとアンサンブルと理論とか……?

宮崎:ドラム科なんですけど、ドラムセットは猪俣さん、猪瀬さんにはクラシック。それに楽典もありましたし、アレンジ、オーケストレーションの授業とか、歌のソルフェージュの授業もあったし、ピアノのレッスンもあったし。例えば楽典の授業なんかは、コードが振ってあるメロディに、全部和音を付けろとかね。しかも、オープンで付けろとかクローズで付けろ、って言われるんですよ。もう全然わからなくて(笑)。

岡本:よく覚えてるね~。俺なんかもう、猪俣さんと猪瀬さんの授業だけでもういっぱいいっぱいだった。

猪俣:猪瀬君は元気にしてるの?

岡本:前、同窓会のときに猪瀬先生も来てましたよね。前回は3~4年前かな。

猪俣:前回のときは、けっこう集まったね。

宮崎:またやりたいね、っていう話になってましたよ。

猪俣:誰か音頭を取らないとダメだよ。

岡本:(中村)秀樹がやってくれてましたよね。

猪俣:秀樹は一番マメだからね。今日、秀樹も来るのかと思ったんだけど。

岡本:1つ下なんですよ。本当は猪俣さん直系でビッグバンドで一番活躍したのは秀樹なんですけどね。

瀧本:そう。ネム音の中で猪俣さんの系統を純粋に受け継いだのは秀樹だよね。
 

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