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[RCCドラムスクール特別企画]

日本音楽界の至宝・猪俣猛と、スタジオ・ミュージシャンとして超多忙を極めた3人の名ドラマーが45年ぶりの再会!

“ネム音楽院”師弟座談会

Scene5

RCCドラムスクール特別企画

[RCC特別企画]ネム音楽院師弟座談会

《Scene5》

“猪俣猛のコピーが生まれたわけではない”──
伝承し、オリジナリティを育む

《Scene5》

“猪俣猛のコピーが生まれたわけではない”──
伝承し、オリジナリティを育む

──時代時代でいろいろ変わっていくとは思うんですけど、その起点の時代にまず猪俣猛という存在があって、みなさんのようなフォロワーが大活躍されて、というのは、まさにこの世代に起きたことなので、ぜひ形として残したいなということで、今回こういう場をセッティングさせていただいたんです。これに当たって、みなさんのプロフィールを検索させていただいたら、みなさん「猪俣猛に師事」って書いてあって、そういう流れができることってすごく良いなと思うんです。誰かに習っていたことを書きたくない人もいれば、中にはバチバチな関係だったりする話もあり...。

瀧本:そんな人がいるんだ。俺たち、猪俣さんがいなかったらプロになってないよ。

岡本:なってない。猪俣さんと出逢わなかったから、たぶん田舎にいたと思うし。東京に来て、猪俣さんと猪瀬先生に出逢ったから今もやれてるっていうのはありますね。

──そこからみなさん、尾崎豊の音楽が生まれ、スペクトラムの音楽が生まれ、高中正義の音楽が生まれたわけですもんね。


岡本:そのルーツが猪俣さんにあるわけですよ。

瀧本:やっぱり伝承ですよ。そういうバトンタッチをどれだけやっていけるかだよね。

──みなさん三者三様のように、“猪俣猛のコピー”だけが生まれたんじゃなくて、いろんなタイプのドラマーが育ったというのが大きいなと思ってるんです。先生が教えたことって、みなさんそれぞれの個性を育みつつ、なおかつ、どんな道に進んだとしても共通だったんだな、ということがわかります。


岡本:そもそも猪俣さんのコピーなんてできないから(笑)。猪俣さんのスタイルがコピーできるんだったら、絶対にやってるよ。

瀧本:猪俣さんのスタイルは猪俣さんしかできない。

岡本:できない。だから猪俣さんにはいろんなタイプの生徒がいたよね。もうちょっと近づけるタイプと、まったく違うタイプと。

──吹奏楽からロックから、ものすごく幅が広いというのはすごいと思うんですよね。


宮崎:ほんとそうだなぁ~。

瀧本:ドラム奏法の基本的な部分は、さっきも先生がおっしゃったように、「シングルとダブルができりゃいいんだよ」っていうところで、「あとは自分で考え、自分で悩み、練習して、“自分のドラム”を叩け」っていう話だよね。

カーネギーホール

カーネギー・ホール

──先生はよく「Jポップは嫌いだ」って言うんですが(笑)、嫌いとか好きとかじゃなくて……。

猪俣:“Jポップ”っていうのは“ファッション・ミュージック”だからね。

瀧本:特に今の“Jポップ”と呼ばれるようになってからはね。いかに銭儲けをするかというファッションの“商品”だから。僕は好きでも嫌いでもないけど、流れていても耳に入ってこない。でも、今、中学3年の女子を教えてるけど、やっぱりJポップだよ。バンドものばっかり。「先生、これやりたい! できるようになるにはどうしたらいいの?」って。

猪俣:そういうの多いね。それが一番困るよね。

岡本:「じゃあ1つ打ちから」っていうわけにいかないから(笑)。

瀧本:「この曲はダブル・ストロークができないとできない。でもあなたはダブル・ストロークができてない。だからお願いだから、夏休み、1日30分でいいからダブル・ストロークの練習して」って、俺、お願いしたんだから(笑)。やったかやってないかはわからないけど、一応LINEで毎日報告しろ、って(笑)。でもその子は、できない日がありながらも1ヵ月ちゃんと続けたら、本当に上手くなった。

岡本:エンジンがかかったんだ。当時、猪俣さんが「1つ打ちと2つ打ちができればいい」って言ったけど、俺が今生徒に言うのは、「あともう1つ、パラディドルの1コ目だけはやれ」と。その3つだけはやれと。そうしたらダブルが必要になる意味がわかるから、って。

宮崎:もう1つ、猪俣さんの言葉で思い出したけど、3連を練習しろって、すっごく言われました。

岡本:そうだ! それはすごく言われた。

猪俣:それは絶対、今でもやってるよ。

宮崎:日本人は3連が苦手だからって。

岡本:そう、俺はその通り苦手だった。3連は、日本人はヘタなんだよね。

瀧本:(右手で“チーンチッキ~”のレガートしながら、左手で3連の真ん中にタップを入れて)コレをやれ、とにかく(間にタップを)入れろってさんざん言われた記憶があるね。

猪俣:それは今でも、どこ行ってもずっと変わらないよ。

宮崎:俺は、3連を意識しながら歩いてた(笑)。

瀧本:アフリカの人たちを見てると、3連で歩いてるもんね(笑)。“上”で取ってるんだよ。

猪俣:なんでか知ってる? 地面が熱いから。

全員:ハッッハッハッハッハッハッハ!!!!!


岡本:それ、サイコーですね!! 使わせてもらいます(笑)。

──(笑)。どうして日本人は3連が苦手なんだと思いますか?


猪俣:言葉からくるんだと思う。日本語って2拍子系でしょ。日本語だと「いのまた さん」だけど、英語だと「ぃのまァ⤴た さん」とかね。

瀧本:言語と音楽の関係ってすごくあるみたいですね。

──ネム音でのレッスンはスウィング系が中心だったのですか?


猪俣:うん。どっちかって言うと4ビート系ばっかりだったね。ちょうどボサノヴァが流行り出した頃だったから、ボサノヴァはやったと思うけど、ロックは当時まだいいグループがあまりなかったから。ビートルズくらいかな。リンゴ・スターって相当ヘタだけどね。味はあるけど。でも、リンゴ・スターじゃないとビートルズにはならないんだよ。

瀧本:チャーリー・ワッツじゃないとストーンズにならないし、ドン・ヘンリーじゃないとイーグルスにならないしなぁ。

猪俣:MJQもそうだけど、コニー・ケイっていうヘタなタイコだからいいんだよね。コニー・ケイが入った方がバンドのバランスが取れてる。バラードだったら、ケニー・クラークだと意外とバンドの味がなくなっちゃうんだ。みんなが良い(上手い)から。ある種の“引き立て役”なのかな。

瀧本:個人的な趣味の話になっちゃいますけど、やっぱりスティーヴ・ガッドっていうのは、引き立たせるべき人を引き立てるときと、自分が出ていって周りを巻き込む、そのさじ加減が非常に上手なドラマーで、スティーヴ・ガッドが好きなのはそこ。当初は「お前の4ビートは4ビートじゃない」なんて言われたらしいけど、“あの人の”4ビートを確立しちゃったしね。

──あんな音色の4ビートは当時なかったですもんね。


宮崎:僕、最近4ビートがおもしろいなと思うようになってきて。今まではオーソドックスな、シンバル・レガートとハイハットの2&4でフツーにやってたましたけど、それをやめて、普通の4ビートのスタンダードを“ドッチッドドッチッドド~”ってやってみたら、そうやっても“4ビート”になるんですよね。3連だから。それがおもしろくて。

瀧本:YouTube観ると、(ウェイン・ショーターの)「Footprints」の3拍子を(1拍を1拍半にして)バックビートで演奏してる人がいっぱいいるんだよね。だから宮崎が言ってたことって、“ジャズだから4ビート”じゃないってことでしょ。

宮崎:そう、“スタイル”は何でもいいんだよ。ちゃんとグルーヴできていれば。だから最近、人によってスタイルが違ってていいのかなって思うようになってきた。フツーのスタンダードの中で“ドッチッドドッ”っていうのも、けっこう良いなと思いながらやってるもんね(笑)。

岡本:いいじゃん、いいじゃん。“ッドドン”って踏むのが一番難しいから。

宮崎:しかもすごく小さな音でね。そうじゃなければ、4つ小さな音で踏んじゃう。

岡本:だって、猪俣さんが「4ビートやるときは軽く踏め」って言ってたもん。「シンバルが(ビートの)メインだから、音がデカいのはシンバルで、キックはベースに合わせて踏め」って俺らは教わったからね。でも「お前のキックはデカいんだ。ロックじゃねぇんだよ」って言われたけど(笑)。

猪俣:やっぱりスティーヴ・ガッドもそうだけど、まずはチック・ウェッブがいて、ジーン・クルーパがいて、バディ・リッチがいて……っていうふうに“歴史に残る”ドラマーだよね。それだけ個性があるっていうか、何か“えっ?”って思わせるものを持ってるんだよね。

RCC研修会,猪俣猛

RCCドラム教室 Summer Camp

──話がガラッと変わりますが、猪俣先生の最初の生徒というと誰になるんですか?

猪俣:中村(典雄)君あたりが、俺の教え子としては一番最初じゃないかな。

岡本:合歓の郷時代。中村先輩ですよね。

宮崎:僕らの1つ上ですよね。

岡本:中村さんは寮にもいたもんね。

猪俣:それまではね、楽器別じゃなくてアンサンブル教室だったの。

宮崎:ああ、合歓の郷では。

猪俣:それを2~3年やって、それから楽器別になっていったんだよ。

岡本:だから中村さんなんかは第1号ですよね。

猪俣:最初の3年間くらいは、講師養成所で“合歓の郷”があったから。

岡本:だから中村さんとか小野(祐介)さんなんかが第4期になるのかな。

猪俣:そのへんが(合歓の郷の)一番最後だったかな。

岡本:たぶんそうですね。俺らも最初は合歓の郷に行くって言われてましたから。それが急遽、恵比寿に変わるってことになったから、俺らは5期なんだね。

宮崎:恵比寿の1期生ってことだ。

猪俣:そのときにはもう、菊名(の寮)はあった?

宮崎:ありました。たいへんな寮でしたよ。男も女も一緒で(笑)。

岡本:松下誠もいたし、山本恭司もいたし。

宮崎:いや、松下は最初からはいなかった。

岡本:いなかったか。藤岡(敏則)だ!

宮崎:藤岡はいた。

猪俣:向谷(実/1956-)はだいぶ下?

岡本:いや、1つ下です。渡辺健(1953-)さんも、学年は1コ上だけど、(ネム音に)入ってきたのは1年後だから。

宮崎:当時は音楽学校なんてなかったから、けっこういろんなところから集まってきてたんですよ。

──そうですよね。募集って、さきほど新聞広告っておっしゃっていましたが、当時はそういう媒体も少なかったでしょうし、みなさんはどこから募集の情報を?


宮崎:僕も新聞広告でした。高校のときに“フォークソング同好会”でドラムを叩きまくってたんで、大学に行ってもどうせ授業なんか出ずに、音楽をやるために大学に行くようなもんだから、そんなんだったら大学行く意味がないって思ってたら、おふくろが「こんな学校あるよ」って新聞広告を持ってきて。それが高校3年の冬休みくらいですよ。それを見て「ここだったらおもしろそうだから行きたい」って、それがきっかけ。その広告に、猪俣さんをはじめ前田憲男さんとか、ものすごい名前がいっぱい書いてあるんですよ。おふくろも、その名前は知ってるわけですよね。

猪俣:講師陣はすごかったね。

岡本:すごかったですね。俺は、京都のど田舎だから、親に教えてもらったわけでもなく、新聞広告でもなく、何かで調べたんですよ。宮崎と同じように、大学に行ってもダメだと思ってたところで、“合歓の郷”っていう音楽の専門学校みたいなところがあるんだ!って知って。

──岡本さんは、比較的近かったわけですね。


岡本:そう。それで「よし、受けに行こう!」なんて思ったんですよ、確か。音楽雑誌で知ったのかもしれない。

──当時、選択肢としてはクラシックの音楽大学に行くしかなかったときに、“合歓の里”“ネム音楽院”ができたわけですね。


瀧本:あとは誰かに弟子入りするか、しかないよね。

宮崎:しかも“プロ・ミュージシャン養成”って謳い文句が大きく出てて。で、僕は、講師の川村さんとか信田さんが当時、浜田良美っていう歌手が世界歌謡祭でグランプリを獲って(74年11月開催の“第5回世界歌謡音楽祭”。曲は「いつのまにか君は(Someday)」)バックをやるっていうときに、「お前、ドラムやらないか?」って声をかけてもらったのがプロになるきっかけなんです。それでネム音は辞めちゃいましたけど、プロ・ミュージシャンを育てるという意味では、講師が生徒を引き抜くというのは、卒業させるよりも正しかったというか(笑)。

瀧本:宮崎はそのあとも(八神)純子ちゃんとか、ヤマハ色というか。

宮崎:そうそう。そのあとヤマハ(のコンテスト受賞者)のバックをけっこうやった。だから俺、最初ヤマハから給料制だったからね。

岡本:あ、そう? 浜田良美さんって、ずっと長渕(剛)のコーラスを30年くらいやってたもんね。

瀧本:岡本は?

岡本:俺は浜田省吾の“愛奴”だよ(※75年7月加入)。ギターの青山(徹)さんとハマショーが学校に遊びに来て、ハマショーがドラム叩きながら歌うのは難しいっていうことで、俺が誘われたの。なぜか愛奴は事務所がホリプロで、ホリプロの何周年かのイベントでハワイに行ったときに、猪俣さんとご一緒させてもらってるんだよ。猪俣さんは前田憲男さんなんかと、確かいろんな歌手のバックで演奏されてたと思うんだけど……。

猪俣:そのときは、郷ひろみが若手で、超新人でまだ17~8歳だったけど。(ステージが)終わるなりちょこちょこっと来て、「おっちゃん、タイコ上手いね」って(笑)。だいぶ前に再会したときに「お前、そう言ったんだぞ」って言ったら、「え、僕がですか? すいません」って(笑)。


(一同爆笑)

猪俣猛

──みなさんのネム音後のキャリアを見ても、“プロ・ミュージシャン養成”の看板に偽りなしですよね。

猪俣:その最初の頃のメンバーは、みんないいミュージシャンになってるんじゃない? 

瀧本:そのあとは“ヤマハ音楽院”になって、特に、ピアノとかエレクトーンの“講師”を育てる学校みたいになっていったのかもしれないですよね。グレードとかがあったり。

宮崎:ネム音は、僕らのあと2期くらいで終わっちゃったと思う。

猪俣:当時も、ネム音楽院を出ればグレード4級かな? 普通は5級からもう指導者なんだけど。

瀧本:そう、たしか俺は4級持ってるんですよ。

岡本:途中で辞めてても大丈夫? やっぱり卒業しないとダメか(笑)。

猪俣:3級になると、柏木玲子とか平部やよいとか松田昌とか、かなり良いのが出てきてね。松田昌は今はピアニカの方で有名だよね。あと、ガボちゃん(中村秀樹)は熱心だったね~。すべての授業を全部メモ取ってて、卒業するときに、「先生、これだけ教わりました」って、そのメモ全部くれたもんね。アイツらしい、几帳面な男だから。

宮崎岡本:へぇ~~、それはすごいですねぇ~~。

岡本:なんもないわ(笑)。

(一同爆笑)

──秀樹さんに言ったら、膨大な写真があるかもしれませんね。


宮崎:あるかもしれないね。

岡本:間違いないね、ガボちゃんは。

宮崎:当時、写真を撮るってこと自体、あまりなかったからね。

猪俣:写真は撮らなかったね。俺も相当写真好きだったけど、持ってないもん。

岡本:そういえば、ガボちゃんは相当優しかったよね。俺がプロになった19歳の夏に、「おめでとうございます」って、わざわざ革のスティック・ケースを作ってくれて。あの男は人情味が最高やね。ものすごく大事に使ってた。

猪俣:けっこう遊びに来るよ。近いからね。……でも俺も、わりあい名前なんか覚えてる方だろ?

宮崎:覚えてますよねぇ~。

瀧本:俺たちの周辺3世代くらいって一番しごかれたんじゃないかな。

宮崎:そうそう。

瀧本:だからあの“ネム音”っていう環境はすごかったよね。先生も血気盛んで。まだ30代ですもんね。

猪俣:うん、30代だね。50年前だもん。もう半世紀だよ(笑)。

岡本:(笑)。猪俣さんがネム音で俺らを教えてたときは、36~7歳だ。俺らが18歳だから。

瀧本:いやぁ、また話戻っちゃうけど、またこうやって猪俣先生と、この歳になってこんな話ができるとはね! 18歳の何もわからない小僧っ子が、先生のところに来て、スティックぶん投げられたりしてたのが(笑)、こんな話ができるなんて……すごいね!

猪俣:それは俺の方こそ。そういう連中が会いたがってるからって聞いて、おー、久しぶりに楽しみだって。今日は楽しかった。じゃあ、今日は終わろう。

瀧本:あ~そうだそうだ、18時からご予定があるっておっしゃってましたもんね。

猪俣:そう、デート。

全員:デーートですか!?


猪俣:当たり前だよ。

全員:やっぱりそうじゃないとね(笑)。もうずっとお元気でいてくださいね。

──こうやって猪俣先生とみなさんが一堂に会すというのは、僕がずっと憧れていた画なので、今日は本当にありがとうございました! では最後に記念撮影を!


猪俣:また会おう!

岡本:先生もお元気で。俺らもずっと元気で頑張らないと。

宮崎:ネム音の同窓会もぜひ実現したいですね。

猪俣:それ、うまく考えてくれよ。音頭取りを決めて、俺が言ってたって言っといてくれよ。

瀧本:矢萩(秀明)と向谷かな(笑)。

 

 

対談後記

 今から約半世紀前に存在した伝説の音楽教育機関、そしてRCCドラムスクールのルーツともなった“ネム音楽院”。その詳細な情報はほとんどなく、あるのは「全員がプロミュージシャンになった」という事実だけ。それだけに当時を振り返っての対談は大変興味深く、また貴重な記録ともなりました。その伝説の学校の生徒募集が“新聞広告”だったというのも今の時代から見ると新鮮ですね(笑)。

 そして師である猪俣猛と生徒だった3人が大ベテランとなった今も、音楽への探究心、向上心を持ち続ける姿勢も刺激となりました。ドラムは何歳から始めても、また何歳になっても本気で向きあえる楽器。是非、多くの方にドラムの楽しさを知っていただきたいと思います。

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